日中友好事業
 
   
 
 
 
「希望工程とは中国国内における地方の貧しい教育事情の工場を目指し、寄付を募る準公的機関のことである。1996年、当時武漢日本商工クラブ会長の西阪博司氏(当時新日鉄武漢事務所長)をはじめとする商工クラブ会員(16社)はその趣旨に賛同し「希望工程」への組織的な協力を行うことを決定した。当時、寄付を行うことを決めた背景から、3年間にわたる募金活動、寄付金が目標額に達した2000年、京山県百子橋小学校の建設にまで至らしめた男達のドラマを3回にわたって連載する。
 

10年前には武漢在住の日本人はまだ少なく、NEC、第一勧業銀行、日本興業銀行、三井物産、新日鉄等が武漢に駐在員を置く、大手企業でした。その人達が集まり、武漢商工クラブを発足させたのが、1995年12月です。初代の会長を務められたNECの横林武洋氏の突然の異動に伴い、私が二代目会長を引き受けましたのは、1996年 7月頃でした。その年の終わりの役員会で、「湖北省・希望工程」の話題が出て参りました。私たちが中国・武漢に来ることになったのも何かの縁であり、中国にお世話になっているという感謝の気持ちを、中国において最も援助を必要としている箇所に届けるのは如何か、というのが提案の趣旨だったと記憶しています。 中国には、一般あるいは企業からの寄付を募り、貧しい子供たちに教育の機会を与えることを目的とする準公的機関・「希望工程」があります。  ところで皆様は、文字を読める、文字を書ける、四則演算ができるといった初歩的な教育が、その人の自立にどれほど大きな支えになるかということを考えたことがありますか? 江戸時代の日本人は、多くの人達が寺子屋で読み・書き・算盤を習い、世界でも有数の識字率の高い国でした。それが、明治維新後の急速な発展の基礎になったことは周知の事実です。また、戦後アジアの多くの国々が識字率の低さ故の困難に直面し、経済発展の速度は緩やかにならざるを得ませんでしたが、日本は、その高い教育レベルを背景に急速に回復し発展したことも良く知られています。このように、国家が自立していくためには、教育は大変大きな力を発揮しますが、教育の力は個人においても全く同じことです。文字を知るということから、見知らぬ他者との交流が始まります。この交流により多くの新しい知識、歴史やものの考え方を知ることができるようになります。即ち、文字を知ることに代表される初等教育が、その人の可能性を開き、自立へと向かわせる基礎になるのです。そのような機会に恵まれない中国の子供たちがいることを認識し、私達の中国への感謝の気持ちを彼らに届けたいという思いから、武漢商工クラブと「湖北省・希望工程」の関係が始まりました。その活動は今も継続されていますが、更に発展されるようお祈り致します。 (2005年6月寄稿)
 

当時の百子端小学校の劣悪な教育環境の改善を訴える
校長先生からの手紙(訳文)

  百子橋小学校は元の名前を何反小学校といい、1959年に設立されました。1970年始めに再建されましたが、数度の小規模な修繕をしただけで、今まで30年近く大規模な改築はありませんでした。

  目下、学校の校舎は難題百出で、教師・児童ともに危険な状態にあり、まさに「窮極まれり」の感であります。学校建設当時使用した赤レンガは、1970年代に当村のレンガ工場が焼き上げたものであるため技術的な原因もあり、現在ではすでに風化が始まり、一塊一塊ごとに崩今にも崩れ落ちそうなレンガの外壁います。壁に塗った石灰は早くから剥離してしまい、今ではところどころが白く見えるだけです。天井の棟木と瓦は長年の風雨の中、腐ってしまっており、いつ崩壊するかもわかりません。雨の日にはいつも「ポタ、ポタ」と雨しずくが落ちてきて、天井の板紙には地図がいっぱい描かれてしまいます。さらにひどいことに、二つの教室の壁には非常に大きな亀裂ができ、危険な教室になってしまい、教師・児童の生命の安全にとって大変な脅威となっております。学校は万一の事故に備えて危険な教室を使わず、二年と三年の児童を一つの教室で授業を受けさせざるを得なくなってしまいました。冬には凍てつく様な北風があるため、教師・児童達は窓をビニールで覆っています。夏には灼熱の太陽が教室を照らし、児童たちは教科書で光を遮るしかないのです。頭に大汗をかいた児童を目の前にして教師は、只只心が痛むばかりです。

 児童に全面的な教育を施す為、学校は全ての授業科目を採り入れていますが、備え付けられない教材がなんと多ことでしょう!音楽の授業ではテープレコーダーさえありません。体育の授業では、バスケットボールのゴールスタンドさえありませんし、綱引きの綱もありません。工天井崩落の危険があり授業ができない教室作の授業では、道具は児童が自分の家から持ってこなくてはならない始末です。教師の住居と職員室は教師達の生活の場所でありますが、そこは一年四季を通じていつもジメジメしていますし、湿気の多い時期にでもなれば、水浸しの湿地のようになり、長靴でもはかなくては歩けなくなります。ある寝室には窓もありませんので昼も夜も暗いのです。職員室は通常整理整頓されていますが、ひとたび雨にでもなれば全く乱雑になってしまいます。職員室でさえ雨が漏りますので先生達は雨を避けて資料をあちこちに移動している状態です。

  トイレも学校の一大問題です。何度も修理したとはいえ、抜本的修理ができないため揺れ動いて今にも倒れそうになっており、教師・児童達に大変な危険をもたらしております。このような数々の問題、教師・児童の恐怖に直面しているこの村立小学校は、改築・修理を全て村の資金で賄っておりますが、この村は、人は多いが田んぼは少なく、企業もなく、農民を支援することができません。現在までの村の借金は未だ100万元ぐらいあり、村役場・会議室さえ学校の一部を利用している状態です。校舎建築など「空言空語」にすぎません。学校に収納される学費は、教科書・資料などの資金さえ不足しておりますのに、どうして校舎の修理など言葉に出せましょうか。

  私達は何度も上級機関の責任者に校舎の状況を報告し、改築の申請をいたしました。しかし、一日が過ぎ一年が過ぎるごとに村の責任者も何度となく変わり、学校の責任者も何代も代わりましたが、責任者はみな「気あれど力なし」であります。

  皆様、私達の学校のこのような状況にご関心を頂き、一刻も早くこの状況を解決していただきますようお願い申し上げます。ひとたび「事」が起こったならば、後に禍根を残すことになるのは必至であります。

2000年3月

百子橋小学校校長 羅 山学

希望小学校建設に関し、湖北省人民政府外事僑務弁公室が発行した
広報誌「外事と僑務」(2000年6月号)に掲載された記事(訳文)

友好の記録〜汗だくの学校建設、真心こもる寄付金(その1)

 2000年5月13日の土曜日。一般の人々にとってこの日は普通の週末と変わりがないかもしれませんが、京山県の南40キロにある雁門口鎮百子橋村の村民達にとって、この日は特別な日でした。平日の静けさの代わりに騒ぎ声がしています。実は、十数名の日本人が、ここから150キロ離れた省都武漢市から、湖北省と京山県の関係者と一緒にわざわざ村にやって来ました。彼らは週末を利用して、村の小学校の為に特別の労働奉仕をするというのです。

 今回の労働奉仕のきっかけは、三年前に開かれた武漢日本商工クラブの集会にさかのぼります。それは1997年4月のことでした。その日、以前から地元に何か貢献できることをして、友好の意を表したいと願っていた日本人達から、湖北省の「希望工程」に寄付するという提案が出されました。検討の末、三年間にわたり生活費を節約し、各人のポケットマネーを貯め、ひとつの希望小学校を建てることが決定されたのです。 

  計画は順調に進み、20万人民元が予定期間内に集まりました。しかし、この資金をどのような方法で寄付しようかと悩んでいた時、偶然にも、理想的な寄付先が見つかりました。

 みちのく銀行の鳴海さんの故郷は青森県です。2000年1月、鳴海さんが故郷に戻った際、たまたま地元の新聞にこんな記事をみつけました。「湖北省人民対外友好協会の手配により、青森県日中友好協会が中国に寄付した長江水害義援金で、武漢市江夏区安山鎮中心小学校が再建」(2000年1月10日付 東奥日報)この記事には、湖北省人民対外友好協会から送られてきた再建された学校の写真と、その学校の生徒達が書いた青森県日中友好協会への感謝状が載っていました。この記事を読んだ鳴海さんは、湖北省人民対外友好協会が日本の民間寄付金を有効に使ってくれたことに大変感激しました。

  湖北省人民対外友好協会について、鳴海さんが全く知らなかったわけではありません。実は、そこには知り合いの中国の友達がいたのです。99年11月、青森県日中友好協会代表団が武漢市に来て、湖北省人民対外友好協会を訪問した時、鳴海さんも参加しました。青森県日中友好協会の寄付金もその時に省対外友好協会に渡されたのです。「湖北省対外友好協会に、武漢駐在の日系企業の人達が寄付した資金を託するのが良いかも知れない。」鳴海さんはそう思いました。

 日本から武漢に戻った後、他の日本人達からも同意を得た鳴海さんは、すぐ湖北省対外友好協会に連絡を取りました。この後、全てのことが素早く順調に進み、京山県雁門口鎮にある百子橋小学校を寄付先とすることが、決められました。

 湖北省の丘陵地帯にある京山県は、改革開放の20年間で、天地を覆すような変化を生じていましたが、色々な原因により、辺鄙な地区に生活している農民達は、いまだ貧困状態から脱していません。経済的に苦しい為、その地区の子供達は教育においても様々な制約を受けており、百子橋小学校もその一例です。この学校の校舎は長年修理が行われなかった為、教室も危険な状態となり、生徒達はそこで授業を受けることができずにいます。湖北省対外友好協会の案内により、湯川さんと鳴海さんは現地を2回訪問し、その村の小学校を実地調査しました。

 日本の友人達が最終的に京山県を寄付先に決定した理由には、もうひとつ重要な事がありました。11年前から京山県と日本の福島県二本松市は「戒石銘」を通じた友好関係を結んでおり、農業、教育及び人材交流などの分野で、有意義な活動を展開しており、解けることのない縁を結んでいました。よって、自分達の寄付金が京山県で有効利用できるのではと、日本人達は硬く信じたのです。

 ここでひとつのエピソードを紹介します。湯川さん(第一勧業銀行)は、百子橋村を実地調査した際、学校にまだ電話が一本も設置されていない状況を見た途端、少しの躊躇もなく、すぐ自分のポケットから、1,000元を出しました。四日後、百子橋小学校の責任者から設置後初めての電話をもらった湯川さんの心には、格別な喜びが溢れていました。

  自分達が駐在する土地に特別な感情を持っている日系企業の代表達は、寄付金だけでは満足できず、寄付金のほかに何か少しでもやれることがないかと考えていました。ある会議の席上、湯川さんの提唱により、週末の休日を使い、自費で百子橋村へ赴き、労働奉仕を行い、汗と力で少しでもいいから校舎新築を手伝おうじゃないかということに合意しました。これにより、前述した日本の友人達の来訪があったのです。

(つづく)

<実地調査の様子>